2014/03/21

イチジク

自分も人生をも変えた果実、それがイチジクだ。

小学校1年生の時、家族と札幌の琴似から秋田県八竜町という所に引っ越した。父親の実家だ、たしか1学期の終わりと記憶している。
そこでの生活は、まさにロビンソンクルーソーの物語だった。
後に「ロビンソンクルーソーの物語」を呼んだ際、自分と一緒だと思った程だ。
自分にとっての大河は八郎潟だったけど。
その村には10にも満たない家があるだくで、片面が海岸で片側が八郎潟という立地で大自然かこまれていた。今思うといえは大変大きく、蛇(アオダイショウ)や、カマキリやトノサマバッタ、昔トンボ、アリ地獄にカミキリムシやクワガタカブトムシ、沼にあふれ返るゲンゴロウなどの昆虫にオタマジャクシで真っ黒な沼、夜は蛍がいっぱいで、大きなカエル。モグラ、カマキリにキジ
食べ物もワイルドだった。ブリコ(ハタハタの卵は、麻袋で運ばれて来る)
 ハタハタに、サザエは幼心に美味と感じた。納豆は自家製だった。
アスパラとメロンやスイカを生産しており、食べ放題。
家の前にそのイチジクの木があった、おばあちゃんが、「茶色くならなければ」食べれないと言われていたので、毎日の様に確認していた。
ある日一つの実が茶色くなっていた、聞くと取ってくれて食べた記憶がある。
それはそれは美味しかった。
今となっては、なくなったおばあちゃんの記憶はそれしか無い。
小学校まで、山をいくつも超えて歩いて通学だったが、楽しい思い出しか無い貴重な経験だ。
いま54歳脳卒中の後遺症で左腕脚麻痺だが、ゆっくりゆっくり回復している。またあの道がまだ存在するなら、この脚で散歩してみたいとすごく思う。

いまもドライフルーツのイチジクをたまにたべることがある。これはこれで好きだが、あの生イチジクも食べたいと思う。
ネットで、トルコ産のイチジクが非常に安価に販売されている8Kg「お買い得」とか
さすがにその量はどうかと思う。

2014/03/14

メガネの買い替え

本日、フレームにガタが来たメガネを買い替えに行って来た。
中学入学とともにメガネのお世話になり、55歳にもなりもう限界まで、視力は落ちた 0.06だそうだ。
メガネ光学技術の限界ギリギリな感じで、今回も修正じで、 1.0の視力にしてもらった
合計で約30000円15000円のセットメガネをベース、薄いレンズにアップグレードした製品、富士メガネで購入。
仕上がりには1週間必要との事。
今掛けているメガネは、韓国海外出張中にメガネを壊して現地で、同じ度数で制作してもらい、帰国後富士メガネで再度調整レンズのみを交換して使っていた。その際、本読み用でもう1セット購入した経緯がある。

韓国の友人の味見のメガネ屋さんは買う安田、20年程前にも5000円で1セット購入した事がある。当時東京でパックツアーとして韓国ソウルにメガネ購入の旅見たいのがあったので笑った。

2014/03/02

Mac スクリーンセーバー アフターダーク フライングトースター

マッキントッシュといえばグラフィックスが綺麗な、パソコンとして発売と同時にその特色を遺憾なく発揮したプログラムが、ユーザーの心をとらえ、熱狂的なファンを築いて来たと思う、自分もその分子の一人と自負している。
当時まだ世の中の殆どが、マイクロソフトMS-DOSでグラフィクスはまだまだ特殊で動きも遅く使える様な物ではなく、Windowsもまだ初期バージョンでまだまだつかえねーぇなぁという代物(売ってはいたけど)
世の人々はマウスの無い、キーボードから呪文的な文字を打ち込んで操作する CUI(キャラクタ•ユーザー•インターフェース)が当たり前に行われていた頃だった。
グラフィックベース GUI(グラフイクス•ユーザー•インターフェース)って遊びオモチャ的な印象が強くて、丁度驚異的にファミコンが普及しておりましたから
日本でもWindows95 Jリーグが発足して市民権を得た頃だ。
ちなみにファミコンは完全にGUIです。
丁度パソコン自体も一定のパアーを持ち始め、動作も早く、メモリも豊富になりようやくまともにGUIが使えて、主要なオフィスソフトも使える様になり、 MS-DOSも必要なくなった、日本でも普及が進んでいた、ワープロソフト「一太郎」なども Windowsで動く様になり、アプリケーション制作会社がほぼWindowsでの動作可能なバージョンを発表した頃Windowsは95からWindows98になり、非常に成熟感を感じるしあがりとなった。
プログラムを作る側も、よりプログラムが作り易く、効率よく(つまり、より簡単に短時間で安定したソフトの開発が可能になった為)
IBM-PCはクローンと呼ばれる互換機も普及され、格安PCとして

それまで、国民機とまで言われた日本電気 (NEC)PC9801からや富士通等数社が独自のPCを制作してそれに マイクロソフトのMS-DOSを移植してセット販売していた頃だ。

MS-DOSもVersionが  1.0から2.0そして3.0とアップしていた頃
 これらは1984年に発表されたIBM-PC/ATをコアとしたハードウェアと2バイト文字といういわゆる漢字文字を直接扱えないため、オリジナルである IBMとマイクロソフトのセット戦略の流れにのれないという弊害を生んでいた、
世界の主流は PC/AT互換機とマイクロソフトであったのだが、余りにも (NEC)PC9801が熟れ過ぎ、世界の流れから取り残される状況に落ちってしまった時期である。
丁度同時期にIBMからDOS/Vというその世界の主流で日本語が使えるオペレーティングシステムが発売された事と、マイクロソフトもその後それらに参加することになり結果的に日本のパソコンがそれ以降世界の流れに取り残されなく使える事により、現在に至る事ととなった陰には沢山のドラマが隠されている。

このDOS/Vの普及でPC/AT互換機が一般に普及することになり結果オリジナル路線だった、 (NEC)PC9801もやがて急速にPC/AT互換機となったのは記憶に新しい。

話はもどって スクリーンセーバーだが、現在 WindowsやMacでは標準で搭載された機能で、元々は、一定時間の操作のない場合、省エネや画面の焼き付けという現象を防止させる為などで、画面の輝度を低くしたり、する機能から発展して行き、画面に面白おかしいキャラクターや効果を表示させる、ユニークなソフトとして人気を得た。
その集大成こそMac スクリーンセーバー アフターダーク フライングトースターだろう
アフターダークという、スクリーンセーバーソフトがあり、それらにオリジナルのプログラムを追加して、オリジナルの スクリーンセーバー機能を追加出来ると言うものだ。